<校歌>





<校歌本文   解  釈>          (旧職員 田口孝雄先生による)

一 塵寰(ジンカン)遠く隔てたる  ああ西海(セイカイ)の別天地
  潮風薫る苓洲(レイシュウ)の  学びの園の露分けて
  飛翔(ヒショウ)を習ふ雛鵬(スウホウ)の  胸は希望に燃ゆる哉


ごみごみした俗世間から遠く隔たったここ天草は ああ、まさに西海の別天地だ。
潮の香漂う天草の、その天草高校に朝早くから登校して励む生徒たち-やがて大空高く飛翔する日のために、「飛ぶ」練習に余念のない鵬(おおとり)の雛のような若者たち-の胸は大きな希望に燃えている。


○塵寰…ごみごみとした俗世間。(=人間)
○苓州…「天草」のことを別名「苓洲」という。「苓」は薬草として知られる甘草(カンゾウ)のこと。それを読み替えて甘草→天草とした。
江戸時代の中国趣味からでたシャレである。
○雛鵬…「鵬」とは想像上の巨大な鳥で、「おおとり」と読む。何者にもとらわれない自由の象徴として、また、大事業をなす人物の比喩として用いる。「雛鵬」はそのヒナ。将来、大人物になる若者に喩える。鵬雛・鳳雛も同じ。

二 振り放(サ)けみれば倉岳の  高嶺(タカネ)を出づる天(アマ)つ日の 
  下界の闇(ヤミ)を照らす時  天(アメ)には真理(マコト) 地には道
  人の心に「正大」の  聖(キヨ)き光ぞ溢(アフ)るなる


遠く仰ぎ見ると、倉岳の高峰から今しも太陽が昇るところだ。
あの太陽が下界の闇をあまねく照らす時
天には真理が、地には道が明らかになる。
そして人の心には「正大」という聖い光が溢れることだなあ。


○倉岳…天草諸島の最高峰。
○天つ日…太陽。「つ」は「の」と同じ連体格の助詞。さし昇る朝日の爽やかさ、地上を遍く照らす太陽のイメージを綱領の「正大」(=正しくすがすがしい)と結合させてある。
○ぞ…強調の係り結び。「なる(なり)」は伝聞・推定の助動詞の連体詞だがが、ここは詠嘆の用法。


三 時永久(トコシエ)に寄る波の  とう鞳(トウ)として岸を打つ
  天草灘の雄叫び(オタケビ)に  聞けや自然の動脈を
  沸きて流るる「剛健」の  生命(イノチ)の潮の高鳴りを


太古から絶えることなく寄せる波がドドーン、ドドーンと岸を打つ。
その天草灘の、雄叫びのような潮の音に自然の力強い鼓動を聞くのだ。
沸きあがり、流れてやまぬ「剛健」の生命の潮の高鳴りをそこに聞くのだ。

 
○とう鞳…太鼓・滝などのドーン・ドドーッといった感じの形容。よみは「とうとう」が正しい。
○剛健…心身ともに強くたくましいこと。「質実剛健」ともいう。その場合は実質を重んじ虚飾を排する意味合いが加わる。天草西海岸の激しく男性的なイメージと結合させてある。

四 神秘ぞ燃ゆる不知火(シラヌヒ)の  筑紫の海に風凪(ナ)ぎて
  澄むや千尋の底深く  万象影を涵(ヒタ)す時
  一視同仁 隔てなき  「寛厚」の徳 君見ずや


不知火が神秘的に燃える天草の東の海。
風は穏やかに凪いで千尋の底深くまで澄んだその海がありとあらゆるものをつつみこむ時、すべてを分けへだてなく受け入れ、愛する「寛厚」の徳を、君はそこに見るだろう。

○不知火…古くは「筑紫」の枕詞としても用いられたが、ここでは実質的な意味を担っている。
○筑紫の海…九州の海の意だが、ここでは三番の歌詞の対応からも、天草の東側の海全体(不知火海=八代海と有明海)を指すと解するのがよい。
○万象…すべてのもの。
○一視同仁…すべてのものを平等に愛すること。
○寛厚…心がひろく、やさしいこと。豊かな海の包容力、浄化能力、そして東の海の穏やかで女性的なイメージと結合させてある。 

      
天草中学校校歌(天高第二校歌)

1番から4番までは、天草高校校歌と同じで、以下の5番と6番が追加となります。

5.自然の敬示
(さとし)わが理想 これを象(かたどる)三種(みつくさ)の
  神寶
(しんぽう)の影仰ぎつつ  皇祖(みおや)の遺訓(おしえ)(かしこ)みて
  護
(まも)るは二千五百年    金甌無缺(きんおうむけつ)の吾が祖国

6.やがて図南
(となん)の翼(よく)ならば 天翔(あまかけ)りなん五大洲(ごだいしゅう)
  摶
(う)つや羽風(はかぜ)に雲散りて   仁義の光明らかに
  世界文化の華咲きて    世は常春
(とこはる)の香に酔はむ 


  

 



*第2寮歌の作詞者は「綿戸宏」と記載されていましたが、「錦戸宏」が正しいことがご家族のご連絡で判明しましたので、修正いたします。錦戸宏さんが旧制天草中学在学中に書かれたものとのことです。当時、学校で募集があって出したら、採用されたそうです。ただ、つけられたメロディーはイメージが違い、もっとさわやかな明るい曲になると思っていたとのことです。(2018/2/12)

*天草高校寮歌の楽譜、歌詞カードはこちらを参照。

<天草の歌>




   

(注)作詞の「宗像まさとしさん(故人)」は、元天草切支丹館(本渡)館長、作曲の「橋本亜三生さん」は、元天草高校教諭、歌唱の「見咲えつ子さん」は、本渡出身、天草高校の卒業生です。
天草・島原の乱のあと、幕府は、天草を直轄地にすることを決定。
寛永19(1642)年9月20日、天草の乱にも従軍した鈴木重成(すずきしげなり) が代官に任命された。鈴木重成はキリシタン絶滅と戦災からの復興に力を入れた。重成は曹洞宗派の禅僧である兄の正三(しょうさん)に協力を依頼し、神社寺院を建立して島民の強化をすすめた。
また、重成は検地を行ない、4万2,000石とされた石高を実高の21,000石(半減)と改めるよう幕府に自刃して、直訴しました。
重成のあとは養子で兄の子である重辰(しげとき)が代官職を継ぎ、重辰も石高半減を訴えつづけ、幕府は、万治2(1659)年、再検地を行わせ、表高を2万1,000石としました。農民たちは、その遺徳と仁政を忘れまいと、島内30余の地に、鈴木神社を建立し(写真は、本渡本町の宗社の鈴木神社)、重成・正三・重辰を天草の守り神として、現在でも「鈴木さま」と親しまれ祀られています。天草を救った代官・鈴木重成の説明は、下記を参照してください。

天草を救った鈴木重成公
荒れた天草を立て直し、民衆を救った代官
鈴木三公を祀る鈴木神社
天領音頭は、関東あまたか会総会・友好の集いで、参加者全員での踊りに使用されています。


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